伝道者7章

7:1 名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。

 良い名は、油にまさる。死ぬ日は、生まれる日よりも良い。

 良い名は、主の目に適った良い行いを表しています。油は、直接的には、豊かさを表し、それよりも、主の目に適った良い行いがまさっていることを表しています。

 死については、次節に説明されているように、人が人生の終わりについて心に留めるからです。いずれも、神の前に良いものを取り上げています。人がそれに心を留めるように教えています。

 なお、油は、聖霊の比喩です。聖霊を受けたことにまさることは、主の御心を行うことです。聖霊を受けても、その目的が果たされなければ、価値がありません。また、生まれることは、新しく生まれた者として、歩みを始めることを表しています。それよりも良いことは、自分に死ぬことです。内住の罪と肉に対して死ぬことです。

7:2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。

 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方が良い。なぜならば、これは、全ての人の終わりであり、そして、生きている者が心にそれを留め置くからである。

 死が生まれることがよいことも、祝宴の家に行くより、喪中の家に行く方が良いことも、人が、人の終わりについて、心に留め置くからです。それが「良い」と語られていて、主の目に適ったことであることが示されています。

7:3 悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。

 悲しみは、笑いにまさる。なぜならば、顔の悪によって、心を良くする。

 悲しみと笑い、顔の悪と心を良くすることが対比されています。悲しみによって、顔が外見的に悪くなっても、悲しみをおぽえることで、心は、主の目に適ったことを求めます。

7:4 知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。

 知恵のある者たちの心は、喪中に家に。しかし、愚か者の心は、喜びの家に。

 神の言葉を受け入れ従う分別である知恵がある者の心は、死について考えます。それは、その先に神の前に立つことを考えるからです。愚か者は、考えようとしません。今を喜ぶことを考えるからです。

7:5 知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。

 知恵ある者の叱責を聞くことは良い。愚か者の歌を聞いている人よりも。

7:6 愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。

 なぜならば、鍋の下の茨の音のように、愚か者の笑いはそのようだ。

7:7 虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。

 実に、抑圧は、知恵ある者に大いに栄光を与える。しかし、贈り物は、心を全く滅ぼす。

 知恵ある者が抑圧されても、その人は、神の言葉に従って生きますから、その人は、大いに栄光を受けることになります。抑圧されて狂わされる者は、知恵ある者とは言いません。しかし、贈り物は、人を喜ばせますが、しかし、それは肉の喜びにつながり、霊的な歩みの元となる心を滅ぼします。

7:8 事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。

 事の終わりは、その始まりよりも良い。遅い霊は、高い霊より良い。

 人の歩みの始めよりは、その人がどのような歩みをしたかと言う結果が大事なのです。初め主の言葉に従って歩み始めても、後で主の言葉から逸れたら価値がありません。遅い霊は、主の言葉に従うことに遅い霊です。しかし、ゆっくりと従うようになります。高い霊は、主の言葉に対して高いのであり、その言葉を受け入れて従うことができません。それよりは、遅い霊のほうが良いのです。すなわち、主の目に適って良いのです。最終的に従うことが大事なのです。もちろん初めから従い続けることは最も良いことです。

7:9 軽々しく心を苛立たせてはならない。苛立ちは愚かな者の胸にとどまるから。

 あなたの霊をひどく揺るがせて、怒ることになってはならない。なぜならば、怒りは、愚か者の胸に休んでいるからだ。

 怒るに至る原因は、霊を揺るがすところにあります。神の言葉を受け入れる信仰に立って歩んでいない時、霊が揺るがされるのです。全てが主の手の内にあることに委ねることができるならば、怒りはないのです。ですから、信仰者が怒りを現してはならないです。事あるごとに怒りを現すのは、愚か者です。その胸に怒りが休んでいます。問題が起こると怒りが目覚めて爆発するのです。彼には、信仰がないのです。

7:10 「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。

 「なぜ、そうだったのか。以前の日々は、これらよりも良かったのか」と言ってはならない。なぜならば、このように尋ねることは、知恵によるのではないからだ。

 現状を以前と比較することは知恵によるものではないのです。主は、そのつど御心をなさるのであり、以前と比較しても意味がないのです。与えられた環境の中で、主の言葉を受け入れ、従うことが大切なのです。

7:11 資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。

 資産を伴う知恵は良い。太陽を見る人に益となる。

 この知恵は、神の言葉を受け入れて従う分別です。資産を伴うのは、御国での相続を伴うことを表していて、主の御心を行い、報いを受けるような知恵を指しています。太陽を見ることは、天体観測ではなく、霊的な事柄の比喩になっています。詩篇19篇に、太陽が花婿であり、全世界に御言葉を届けることが歌われています。日を見る人は、御言葉を信仰によって受け入れる人のことを表しています。その人にとって、資産を受け継ぐために御言葉に従うように働く分別としての知恵は、益があるのです。御言葉を聞いても、自分のものとしない人には、すなわち、御言葉を聞いて、従い、その中に生きることをしない人には益はありません。

7:12 知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。

 なぜならば、知恵の陰にいることは、銀の陰にいることだからである。そして、知識の益は、知恵が持ち主を大いに生かすこと。

 知恵は益があることが銀の保護のもとにあることとして、例えられています。それとともに、銀は、贖われた者の歩みを表していて、知恵によってもたらされるものは、内住の罪に対して死に新しく生まれた者として歩むことです。それは、御国での報いをもたらします。

 そして、太陽を見ることは、知識を受けることですが、その点についての説明になっています。知識は、知恵があって初めて価値があり、その持ち主を神の前に生きた者としてしっかりと歩ましめることにあります。それは、大いなる資産としての報いをもたらします。

・「陰」→保護。あるいは人間の存在の儚い性質。

7:13 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。

 神の業を見よ。なぜならば、神がぶん曲げたものを誰がまっすぐにすることができるのか。

 事の原因は、神によります。全ては神の業として行われるのです。人の思いからそれを変更しようとしてもできないことです。むしろ、人は、神の業を受け入れ、信仰によって神に従って生きることこそ大事です。私たちの心配や、思い通りにならないことからくる怒りは、信じて委ねないところからきます。

7:14 順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。

 良い日には、良い中にあれ。悪の日には、見よ。神は、これとともに対応してあれもなさった。人が、彼の後のどんなことも見出すこととがないためである。

 主の御心に適った良い日には、その良い中にあるように。悪い方へ行く必要はないのです。悪の日には、見よ、と。信仰の目によって見るのです。神は、良いことに対応して悪も、どちらもなさったのです。それは、将来何が起こるかを人が見出すことがないためです。現状から将来起こることが分かるというようなことはないのです。

7:15 私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。

 私は、私の空しい日々の中で、全てを見た。正しい者が正しさの中で滅びることがあり、悪しき者が悪の中で長らえさせられることがある。

 知恵があっても、神の業として滅びることもあるのです。そのような、外見的な出来事に心を留めてはならないのです。

7:16 あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

 あなたは、過度に正しくあってはならない。また、自らを過剰に知恵ある者としてはならない。なぜ、あなたは、自らを徹底的に荒廃させるのか。

 自ら正しさを求めることは良いのです。しかし、ここでは、過度にそれを求めることについて戒めています。正しさを求めることで、それが他者に向けられた時、人を裁くことになります。知恵についても同様です。自らを大いに知恵ある者とすること、過剰にそうすることは、他者への裁きとなります。御霊の実として柔和であることは、正しく、知恵あることについても抑制を伴う性質です。過剰であることで、自らを徹底的に荒廃させます。

 ここからは、知恵があることが良いことであることを踏まえて、過剰にそれを求めることについて戒めています。

7:17 あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

 あなたは、過度に悪であってはならない。また、愚かであってはならない。なぜ、あなたの時ではない時に、死ぬのか。

 人が不完全な罪人で、内住の罪に従って罪を犯すことは、避けられないのです。しかし、だからと言って、過剰に悪であってはならないのです。愚かであることは、神に対する恐れの欠如であり、神の言葉に従いません。それはあってはならないことなので、程度の問題として記されていません。

7:18 一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。

 これの中で掴み、そして、これからあなたの手を離さないようにすることも良い。なぜならば、神を恐れる者は、これら全てと共に出て行く。

 はじめの「これ」は、正しさ、知恵あることです。しかし、その中で、適度な程度のものを掴むのです。後の「これ」は、過度の悪や愚かでないことで、それを掴んで手放さないのです。それらを手に携えて出ていくのです。

7:19 知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。

 知恵ある者にとって、知恵は、町にいた十人の支配者より、強くなる。

 知恵ある者は、その知恵によって非常に強くなります。過剰に自らを知恵ある者にすることで強い者になります。

・「力づける」→強くなる。支配的になる。硬くなる。

7:20 この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。

 なぜならば、良いことを行う、罪を犯さない正しい者は、この地に、一人もいないからである。

 人が良いことを行うことができず、正しい者ではないないことに対して、知恵は、神の御心を行う力を与え、力強い者となります。ですから、過剰に知恵がありすぎると、他の人の悪い点が目につき、神の前に正しく歩んでいないことが悩みとなるのです。それは、自らを荒廃させます。

7:21 また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。

 また、あなたのしもべがあなたをひどく呪っているのを聞かないために人々の語る言葉に心を留めてはならない。

 たとい主人をひどく呪っていたとしても、それを悪事として取り上げ裁くようなことをしてはならないのです。これは、正しすぎることがないことの例です。いちいち、人を裁いて、自らを人々から疎まれる者にし、自分を荒廃させることになります。

7:22 あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。

 なぜならば、あなたも同じく、他の人々を呪ったことを、あなたの心は、何度も経験したからである。

 彼は、口に出しては呪わなかったが、心では、他の人々を呪うことを何度も経験したのです。それで、しもべが自分を呪ったとしても心に留めないのです。

7:23 私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。

 私は、これら全てを知恵によって試した。私は言った。「知恵ある者になりたい」と。しかし、それは、遠く離れている。

 五章の終わりで、一つの結論に達しています。そして、六章の初めから、知恵ある者とそうでない者の違いについて、論じ始めています。六章八節で、知恵のある者が何が優れているのかとその対比について論じています。六章七節までは、導入部分です。知恵のある者と、知恵のない者に違いがないように見える点を取り上げています。

7:24 今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。

 今まであったことは、遠く離れていて、また、深く、深く、誰がそれを見出すことができるか。

 今まであったことについて論じてきましたが、それは遠く離れていて、とても深いのです。それで、次節から方向転換します。

7:25 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。

 私と私の心は、知るために、また、探り出すために、また、知恵と熟慮を探し求めるために、また、悪は、愚かであること、それと、愚かさは狂気であることを知るために方向転換した。

・「道理」→受け入れた御心を熟慮し分別すること。熟慮。

▪️方向転換 前回に続いて二回目

・伝道者2:20

・伝道者7:25

・伝道者9:11 戻った。

・伝道者12:5

7:26 私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。

 私は、女が罠であり、また彼女の心は網であり、彼女の手は枷であり、女は、死よりも苦いことを見出している。神の前に良い者は、彼女から逃れる。しかし、罪を犯している者は、彼女に捕らえられる。

 女が死よりも苦々しいことを見出していました。

7:27 伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。

 見よ。私は、これを見出した。一人の伝道者は言った。一人に熟慮を見出した。

7:28 私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。

 私のたましいは、なおも、探し求めた。しかし、見出さなかった。私は、千人から一人の男を見出した。しかし、これら全ての中に女を見出さなかった。

7:29 私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。

 これだけに目を止めよ。私が見出したことを、すなわち、神が人を真っ直ぐな者に造った。しかし、彼らは、多くの理屈を探し求めたことを。

 人は、神に従わない理屈を探し求め、神の言葉に対して真っ直ぐではありませんでした。